海外マルファン情報

米国マルファン症候群患者団体The Marfan Foundationからの情報を中心に、マルファン症候群や関連疾患についての海外情報を翻訳して発信します。

思春期の怒りと自覚:自分と身体を理解するために

2019年2月11日

Sarah E. McMillan

 

 

はじめに

 

自分の病気のことを話題にしたくなくて、新しい友達の輪に入って、少し(orメチャクチャ)喋り過ぎたことはありませんか?循環器の診察が不安で「2、3ヶ月延ばせないかなぁー」と思ったことがあるのでは? ―― 私もそうなんです。

 

皆さんが循環器科を受診しない理由にはいくつかあると思います ―― 近くに専門医のいる病院がない、医療費の自己負担が多い、必要な時に知りたい情報が手に入らない、医師や看護師、病院との間で嫌な経験があって行くのをためらっている、などなど。

 

この他にも、あまり語られない大きな理由があると思います。

 

思春期と慢性疾患

 

思春期とは移行期間です。体の変化や他者との関係、自分自身の捉え方も変わります。家族から独立して、自分で決定権を持ちたいと思うようになり、日常生活では、自分が望んでいるかどうかとは関係なく、友人や同級生から影響を強く受けるようになります。

 

慢性的な病気を抱える人がこの移行期間に入ることで、体の変化や精神的な不安定さ、好奇心以外に複雑な状況がプラスされます。思春期が始まり成長の節目を迎えることに加え、慢性疾患による身体的、感情的、心理的、社会的影響を理解し、コントロールできるようになっていきます。

 

私達の体は、言ってみれば、外の世界や他人とのやりとりのための乗り物です。そうした体験から、自分自身や自分の体について理解できるようになります。

 

私達の社会では、健常者であることが特権になっています。この世界や仕事、学校、交通手段、食料品店、公園(などなど)、ほぼ全てが健常者に合うように作られています。体調が悪くなったり、慢性疾患がある場合などは、健常者向けに作られた構造物により、自分たちが「普通」ではないことを思い知ることになります。

 

人生にはこうした出来事を痛感する時期が何度かあり、その一つが思春期だと思います。大人になってから振り返ると、Marfan症候群患者であるということにオンリーワンの価値を見出すことができるのかもしれません。でも、だからといって、自分は「普通じゃない」と感じないということではありません。

 

自覚

 

マルファン症候群の女子として成長する中で、自分の病気のことをやっと理解できるようになったのは、(何度も通院したことを除けば)10歳で初めて心臓手術を受けた時です。すぐに僧帽弁の治療が必要な状態でした。手術から数ヶ月後、床に寝そべって妹とバービー人形で遊んでいたことを覚えています。床に寝そべっていたのは、起き上がるとクラクラして、動悸がするからでした。術後の合併症はありましたが、バービーが高校生になったことはちゃんと理解できました。

 

その二年後には、大動脈基部の置換手術を受けました。でもその時は体調には問題がなかったので、中学1年生の演劇発表会に出られないと思ってすごく取り乱していました。私が幸運だったのは、責任を持って治療の管理をしてくれる家族がいたことです。なので、犬を飼いたい、石蹴りをしたい、友達や妹と自転車に乗りたいなど、子供にとって重要なわがままを聞いてもらうことができました。当時、根本的な他人との違いを理解したり、疑問を持ったという記憶はありません。単純にそれが自分なんだと思っていたんです。

 

成長するにつれ、自分の病気の厄介さに気づくことが多くなっていきました。自分で病気の管理をしなければならないということ、そして、自分の判断や自分が恐いと思うもの、何か行動した後の結果や病状などが同年代の友人たちとは大きく違っていたということが理由です。

 

例えば、17歳の時に受けた脊椎の固定手術は、担当の整形外科医と相談の上で自分で決断しました。でもそのせいで、高校二年の学年末に開かれた友人のダンス・パーティや夏のイベントなどに参加できなくなりました。そのうえ数ヶ月にも及ぶ猛烈な痛みや孤独など、背骨が真っ直ぐになることと引き換えに、いくつかの長期的な代償を払うことになってしまったのです。こうした決断は「みんなと同じになりたい」という当時の願望に基づくものでした。

 

アイデンティティとマルファン

 

10代の若者として抱いたこの願望を、「マルファン患者としての人生を自分のアイデンティティにどう取り入れていけばいいか」という問題から切り離すことはできませんでした ―― どうやって隠そうか、いつ本当のことを言おうかと絶えず不安になりながらも、自分の一部として病気を前向きに受け入れたいと思っている自分。その一方で、社会の基準に合わせようと、外見上明らかにもかかわらず病気を拒絶し誤魔化したいと思う自分がいました。マルファンのせいで「自分は他人とは違う。欠陥品なんだ」と思わずにはいられなかったのです。

 

こうした感情が引き金となり、胸を張って言えないような行動に出てしまいました。危ない決断をする、自らを危険な状況に置く、私の幸福を考えない人たちと一緒の時間を過ごす、身体を傷つける、自分のことを気にかけてくれる人たちを遠ざける ―― 自分のことを心の底から理解してくれる人なんていないんだ、そういう気持ちでした。

 

そんなのは多くの子供が通る道だ、という人もいます。ですが、私の状況はそんなものではありませんでした。私が抱えていた根深い怒りや悲しみ、屈辱といったものを当時はっきりと表現することはできませんでした。表現する代わりに逃げようとしたのです。抑制や承認、自尊心といったものが存在しない世界を必死になって探し求めていました。

 

当時私が抱いた感情や選択した行動が、様々な慢性疾患を抱える若者に一般に見られる受動的対処戦略というものだということがわかったのは、大学に入学し、社会学修士号を取るための勉強を始めてからのことでした。(私の研究テーマは、慢性疾患や障害、マルファン症候群でした)

 

この情報を知り、安心すると同時に怒りが込み上げてきました ―― 研究した人たちがいたから、研究結果として残っているのだろうか?なぜ私は知らなかったのだろう?私達がコミュニティとして考えなければならないことは何だろう?若者を救うために何ができるだろう?

 

こうした考えがきっかけとなり、改善できそうな領域があるということに気が付きました。受容についてどのように考え、どのように伝えたらよいか 。特にマルファン症候群の啓発にも関連があります。

 

受容とマルファン

 

これまでの私の人生には、上で述べた理由により、自分の病気を受け入れる覚悟がなかったり、受け入れたくない、あるいは受け入れられないという時期が多くありました。大人に近づくにつれ、支援を求めたり、病気を理解するため、恐る恐るではありましたが、専門家や患者会を訪れるようになりました。その結果、自分自身のため病気を受け入れなければならないという考えに至りました。

 

私が考えたのは、「病気を疎ましく思う社会の中で、どうやって病気を自分の一部として受け入れればいいのか」ということでした。そのような時間はマルファン症候群と共に生きることの意味や、病気を受け入れることで外見と内面がどのように変化するのかといったことを考察する機会となるはずです。このような考え方がきっかけで、自分自身を遠くに突き放すのではなく、より身近に感じるようになったのかもしれません。

 

はっきりとはわかりませんが、積極的に自分を受け入れるきっかけとなったのは、自分の健康状態への不安かもしれません。マルファン症候群の患者さんであれば、この病気を長期的に管理していく上で、治療と経過観察(とりわけ心血管系)が中心となるということを耳にしたことがあると思います。ということは、私達に手を差し伸べる人たちは、私達が長生きできるように必要な治療をしっかりと受けて欲しいと思っているはずです。

 

ですが、その人たちの一貫した主張は一体どこからやって来るのか ―― 大人になりかけの私は理解に苦しみました。この問題は、私がマルファン症候群の他の患者さんから聞いた批判的意見や、私自身が感じたことと関わりがあると断言できます。それは、マルファン症候群の治療や研究は、患者さんを生かしておくことに注力しすぎており(それに関しては患者である我々は感謝しているのですが…)、QOL(生活の質)とはどういったものであるかやQOLの改善についてはあまり力を入れていないのではないかということです。幸いなことに、医療とQOLの両方が必要であることがわかってからは、自分の考えも変わりました。

 

医療とQOL

 

同じように、病気の受け入れ方に関して、混乱したり、不安や怒りを感じたり、ありとあらゆる感情や考えが湧き上がってくるということは全く当然のことです。そうであったとしても、必要な医療は継続して受ける必要があります。

 

一日の終りに、自分の診断を全てあるいは一部でも受け入れて、命に関わる事態となるのではないかと考えを巡らせる必要はありません。

 

もしもあなたが若い方で、心当たりがあるのなら、伝えたいメッセージがあります。それは、あなたの気持ちはよくわかるということ。もしもあなたが大人で、同じような経験をしたのなら、あなたは仲間です。マルファン症候群とうまく付き合っていく方法はたくさんあります。対話の継続と様々な自覚を通じ、皆さんがベストマッチな受け入れ方を見い出すこと ―― それが私の願いです。

 

Sarah E. McMillanさんについて

 

カナダ・トロント在住のMarfan患者で、研究員・ソーシャルワーカー・認定ホリスティック療法士の肩書をもつ。病気とうまく付き合う方法を学ぶ医療ツールとして、長年にわたり多彩な文体や研究を活用している。医療制度や病気に対する認識を改善するという自らの願望の形成に直接つながったとして、受けた診断には感謝している。

 

出典:

blog.marfan.org

 

The Marfan Foundation did not participate in the translation of these materials and does not in any way endorse them. If you are interested in this topic, please refer to our website, Marfan.org, for materials approved by our Professional Advisory Board.

The Marfan Foundation は、当翻訳には関与しておらず、翻訳内容に関してはいかなる承認も行っておりません。このトピックに興味をお持ちの方は、Marfan.org にアクセスし、当協会の専門家から成る諮問委員会が承認した内容をご参照ください。