2023年9月23日
The Marfan Foundation
「人生が一変したあの瞬間…」
2020年7月31日。僕の人生が一瞬で変わってしまった日。早めの夕食を済ませて帰宅すると、左腕が突然感覚を失った。家はひんやりとしていたのに、汗が吹き出してくる。左腕の感覚はない。妹夫婦に電話をかけた。ふたりとも薬剤師として医療現場に立っている。念のため、救急処置室に行くよう言われた。
救急処置室で心電図と採血を済ませた。今のところ問題はないらしい。すぐに家に帰れると思ったが、CTを取りたいと言われた。何も問題がないことを確認したいとのこと。待合室で待っていると、血相を変えた看護師がこっちに向かってくる ―― 「心臓の緊急手術のため搬送します。あと数時間の命かもしれません」「別人のカルテを見ているんじゃありませんか?僕はまだ38歳ですよ。余命数時間なんて、あるはずがないでしょう」
看護師チームが僕に手術の準備を施している。同時に、手術チームの待つ病院への搬送手続きが進められていた。この時になってやっと、事態の深刻さに気がついた ―― 本当に僕は終わりかもしれない。
手術室で執刀医チームと顔を合わせた。これまで小さな手術は受けたことがあって、そのときのチームは陽気で気さくな感じだった。でも今回は違う。事の重大さがひしひしと伝わってきた。執刀医は言った。「君に残された時間は数時間だ。A型大動脈解離の救命率は高い。だが君はギリギリのラインにいる。命の保証はできない」数秒かけて考えをまとめる。静かに運命を受け入れようと思った。
死と隣合わせになった時、興味深いことが起こる。ゆっくりと時は進み、今という瞬間へと意識が研ぎ澄まされる。僕は執刀医に告げた。「先生、間違ってますよ。今日僕は死にません。なぜなら僕はアヴェンジャー(復讐者)だからです」(ちなみに僕はマーベル・コミックの大ファンだ) 息巻いてはみたものの、自分の力ではどうしようもないことは心底わかっていた。
手術は12時間に及んだ。胸部大動脈を修復し、大動脈弁を機械弁に置換した。失った血液は12リットル。手術終了後、執刀医からマルファン症候群の診断が付いているかどうか尋ねられた。家族がノーと答えると彼はこう続けた。「遺伝科で診てもらってください。結合組織と今回の急変からわかりましたが、彼は教科書通りのマルファン症候群でしたので」
医療行為による昏睡は5日間続いた。
コロナのせいで家族は見舞いに来られず、一ヶ月間病院に一人きり。生まれて初めて味わう寂しさ。こんなつらい目にあったことはなくて憂うつだったし、周りに支えてくれるものがない状態で一ヶ月過ごすことはかなりこたえた。治療は24時間体制で進められ、歩くこと話すことで精一杯の毎日だった。40日間声が出なかったのは、手術のための挿管で声帯が麻痺していたからだ。
やっと退院できた時には、家族に再会して格別な気持ちだった。手術からのリカバリーは、在宅医療チームの訪問によるINRの測定やら理学療法やらで始まった。
2020年8月末のオンライン診療で循環器の先生から、2021年までは働けないかもしれないと言われた。この期間はリカバリーと日常を取り戻すためにあった。特別休暇中だった僕に上司から伝えられたのは、人事部は2020年10月以降は僕が仕事を続けられる保証はできないということだった。特別休暇中は無給ということも追い打ちをかけた。この知らせには打ちのめされた。でも持ち前の負けん気は復活し始めていて、「2020年の10月までには復帰しますので」みたいなことが口をついて出てきた。「ノックダウンされたら立ち上がれ」父親とコーチに絶えず叩き込まれてきたのだ。この教訓が染み付いていたことをうれしく思った。目標の達成には、チャンピオン級の努力が必要だったのだから。
毎日1時間、理学療法を受けた。初日は惨敗で、郵便受けまで歩くだけでヘトヘトになってしまった。理学療法士の女性が「キツすぎるんだったら、15分でやめましょうか?」と言うもんだから「だまれ!この xxx」と言い返してしまった。「ダメじゃないか。そんな汚い言葉を使っちゃ」 というキャプテン・アメリカ(マーベル・コミックに登場するキャラクター)の声が聞こえた(笑)。どんなに大変でもあきらめる訳にはいかない。毎日歩く距離を少しづつ伸ばしていった。家でのエクササイズ課題を与えられ、必死で食らいついていった。
2020年9月14日、循環器の診察があった。山ほど検査を受けて、リモートの仕事には戻っていい、と言われた。妹は信じられなかったみたいだ。なんせ彼女は2021年までは働けないと思っていたのだから。GOサインがでて、大好きなハイレベルな仕事ができることは本当に驚きだった。
診断:マルファン症候群
遺伝科の先生のオンライン診療を受けたのは、2020年10月のことだ。診断はやはりマルファン症候群。心臓の緊急手術が必要になる理由は、この病気以外にありえなかったのだから動揺はしなかった。
2021年1月には、6ヶ月ごとの診察で外科医を訪れた。経過は良好とのこと。CTの結果を見て、頑張って身体を動かしたようだから今後も続けるよう言われた。また一つチェックポイントを通過したと思った。家族も大喜びだ。でも、悲しい出来事もあった。その月で結婚生活が終わりを告げたのだ。生まれてくる子どもには50%の確率でマルファンが遺伝する ―― その事実の重さも理由の一つだった。
この不穏な時期に受け取ったアドバイスの中で最も役立ったのは、カウンセリングのすすめだ。ジョージタウンで一緒に働いていた同僚からのものだった。このアドバイスに従って本当に良かったと思っている。2021年の2月から月に2回カウンセリングに通うようになった。解離を起こしてから回復までの期間に起こった出来事を新たな視点で捉えたり、メンタルヘルスの問題を相談できるようになった。そして何より、マルファンのことを話せる相手ができたことは大きかった。
カウンセリングでは、マルファン症候群の良い点・悪い点を書き出すように言われた。実際にやってみると、トータルで良い点のほうが、悪い点を上回っていた。良い点としては、以前より健康になったこと。手術前は272ポンド(約123kg)だったのに、今はバスケットボールがプレイできる202ポンド(約91kg)になっている。ダイエットに成功したのは、減塩食と毎朝6~7マイル(約9.6~11km)の散歩のおかげだ。家族や友人との距離も縮まったし、精神的にも成長できたと思う。
カウンセリングで学んだ最大の教えは、許す技法だった。人生における次のステージに進むためには、過去の出来事を許すことがキーとなる。影響の大きくない出来事であれば、許すことはたやすい。反面、人生が激変するような出来事であれば、許すことは困難となる。マルファンを受け入れられるようになり、今では、新たな生活を愛おしく思えるようになっている。
僕が自分の体験を話そうと思ったのには、自分の心を浄化したり、治療効果を求める以外の目的がある。僕の体験談で救われる人がいる可能性を感じたからだ。マルファン症候群については、誰もがそれぞれの経験を持ちあわせていて、その影響も多岐にわたる。The Marfan Foundation のホームページで、マルファンの人々が書いた様々なストーリーを読んだ。これらの話に感化されて許しの一点に到達し、自分の経験をシェアしようと思った。
2022年1月、僕の病気との戦いが地元ニュースで取り上げられた。その後、フィアンセのシンシアと初めて手をつないだ。そして2023年9月、僕たちは入籍した。
僕の人生に新たな1ページが刻まれていく。それは皆さん一人一人にも。マルファン症候群と類縁疾患の皆さん、前向きでいることを忘れないでください。そして、素晴らしいコミュニティがあることを知ってください。私達を愛し、支えてくれる存在です。
最後に、『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル・ユゴー著)の台詞から、僕のお気に入りの一つを紹介します:「どんなに暗い夜にも終わりが訪れる。そして、太陽が昇るのだ。」
出典:
The Marfan Foundation did not participate in the translation of these materials and does not in any way endorse them. If you are interested in this topic, please refer to our website, Marfan.org, for materials approved by our Professional Advisory Board.
The Marfan Foundation は、当翻訳には関与しておらず、翻訳内容に関してはいかなる承認も行っておりません。このトピックに興味をお持ちの方は、Marfan.org にアクセスし、当協会の専門家から成る諮問委員会が承認した内容をご参照ください。